作品名:モネ
サイズ:約12.5cm
素材:マグネット付き指人形
可愛いミニパペット
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小さなお人形のこの子は誰でしょう。
それは、クロード・モネです。
デフォルメされたフォルムはなんだかキャラクターのようで、親近感がわきますね。
頭の部分に磁石が入っていて、冷蔵庫やホワイトボードに貼ったり、ちょっとしたお部屋の飾りにもできるこのミニパペット。
とぼけた表情で、見ていると思わずくすっと微笑んでしまうようなお顔です。
指人形として、お子様とも遊べますよ。
作家
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クロード・モネ Claude Monet(1840 - 1926)
印象派を代表するフランスの画家。彼の代表作「印象・日の出」(1872)は、印象派の名前の由来になりました。パリで生まれたモネは、10代から絵の才能があり、アトリエの中で絵を描くことが主流だった時代、屋外で制作活動をしていた風景画家ウジェーヌ・ブーダンとの出会いで外光の魅力を学び、屋外で制作するスタイルを身に付けました。自然の光の表現にこだわり、「筆触分割」と呼ばれるパレットの上で絵具を混ぜずに、細く小さな筆のタッチで絵具を置くように描写する手法を用いて、その美しさの表現を追求しました。生涯のうちの多くをセーヌ川沿いで過ごし、感じ取るその瞬間をとらえる風景画を数多く残しました。
代表作「睡蓮」シリーズ
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「睡蓮」は、「印象・日の出」とともにモネの代表作として、多くの人に知られています。
モネは50歳代でフランス北部ジヴェルニーに移り住みましたが、「睡蓮」のモデルとなった池は、その自宅隣に購入した土地に造設した池。
そこを「水の庭」と呼びました。
日本風の太鼓橋を中心とした池と、水面に浮かぶ睡蓮。柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹など、様々な植物が咲き乱れる、幻想的で美しい庭でした。
多数の浮世絵をコレクションし、ジヴェルニーの家にも浮世絵を飾るほど日本美術に魅せられていたモネは、庭にも日本の要素を取り入れていたんですね。
初期は、この橋と池のある空間をひとつの風景として切り取った作品を描いていましたが、次第に光によって変化する水面自体に注目するようになりました。
季節、天候や時間によって表情を変える池に合わせて、何枚も何枚も描いています。
86歳で生涯を終えるまでその庭を描くことに没頭したモネ。
白内障を乗り越え、意欲的に制作したその数なんと約200点!
晩年には、「睡蓮」の大装飾画も8点ほど制作しました。
中には幅17mのものもあり、圧巻です。
なお、モネの自宅と庭は息子に受け継がれ、その後1966年に美術アカデミーに寄贈、修復工事の後、一般公開されています。
実は、日本国内にも、このモネの池から株分けされた睡蓮が見られるところがあるんですよ。
カフェ・ゲルボワ
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パリのモンマルトル バティニョール地区 (現在のクリシー街9番地)にあった「カフェ・ゲルボワ」。
1860年代後半、この店は「芸術家たちの溜まり場」でした。
中心となっていたのは、エドゥアール・マネ。当時タブーとされていた裸の現代女性を描いた「草上の昼食」や「オランピア」で、センセーション(今でいう大炎上!)を巻き起こしていた画家です。
この店は、そのマネのアトリエからほど近くにあったこともあり、時代の先を行く彼を支持する若い芸術家たちが夜な夜な集い、新しい芸術について激論を戦わせていたのです。
そのメンバーは、今振り返るとなんとも豪華な顔ぶれ!
マネを中心に集まっていたのは、ドガ、ピサロ、セザンヌ、バジール、ルノワール、シスレーなどの画家を始め、作家のエミール・ゾラ、批評家、彫刻家、版画家、写真家などなど。もちろん、モネもその中の一人でした。
その頃すでに注目されていたマネとドガが芸術論を戦わせており、20代の若手画家だったモネやルノワールはその話を熱心に聞き入っていたとか。
「カフェ・ゲルボワ」での意見交換は、この後に生まれる「印象派」の礎となり、モネは
「際限なく意見を戦わすこうした「雑談』ほど面白いものはなかった。そのおかげで、我々の感覚は磨かれ、何週間にもわたって熱中することができ、そうして意見をきちんとまとめる事ができた。」
と語っています。
印象派の始まりは酷評!?
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アート好きなら知らない人はいない(!?)「印象派」。
その名前は、モネの代表作「印象・日の出」(1872)に由来すると言われています。
サロンに落選していたモネは、独立した自由な発表の場を求め、自らの手で展覧会を開こうと模索したのが始まりでした。
1874年、モネが同じ志の仲間たちと開催したその展覧会こそが、のちの第一回印象派展となるグループ展。
モネのほかに、ドガ、ピサロ、ルノワール、シスレーなど30人以上の画家が参加しました。
モネは、故郷ル・アーヴルの港を描いた「印象・日の出」を出品しましたが、当時写実主義が高く評価されていた時代、その異端な作品は酷評されてしまいました。
―――批評家のルイ・ルロワが、新聞紙『ル・シャリヴァリ』に載せた言葉。
「印象か。確かにそうだと思った。私も印象を受けたんだから。つまり、その印象が描かれているというわけか。だが、なんて自由で、なんといういいかげんさ。この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、よっぽどましだ。」
その揶揄がもとで、彼らは「印象派」と呼ばれるようになりましたが、その呼称はいつしか受け入れられ、画家たち自身も使うようになりました。
モネは熱烈な日本オタクだった...?
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現在でもモネは、多くの日本人に愛される印象派画家の一人です。
しかしモネ自身も同じように、19世紀末のジャポニズムのうねりの中にあって「日本愛」を公言している画家でした。
モネの日本愛が溢れている作品の一つに、「ラ・ジャポネズリー」があります。
赤い着物を纏ったモネの妻カミーユが扇子を片手に持っている作品です。
当時のヨーロッパ画家たちは、浮世絵の鮮やかな色彩などの独特な手法に憧れていて、モネもそのうちの一人でした。
「ラ・ジャポネズリー」の中でも着物の鮮やかな赤やカミーユの後ろを振り返る「見返り美人図」の構図など、どこをとっても日本画へのリスペクトと愛を感じます。
モネの自宅の壁には一面に日本の浮世絵がありました。
現在の日本人がモネを愛しているように、モネも日本の文化を愛していたようですね。
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