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2024/06/25 10:00

「炎の画家」とも呼ばれるオランダの代表的な画家、ゴッホ。自らの感情と向き合い、大胆な色使いで表現した彼の作品は、死後130年経つ現在も多くの人々を魅了します。ゴッホが生きたのは37年という短い年数でしたが、その人生はまさに激動。彼が歩んだ色濃き人生を、一緒に辿っていきたいと思います。


ゴッホはどのようにして画家になったの?

1853年3月30日、ゴッホはオランダ南部の小さな村・ズンデルトに牧師の長男として誕生しました。下には、のちにゴッホを支える弟のテオを含む5人の兄妹がいましたが、特にゴッホは幼いころからかんしゃく持ちで気難しい性格だったため、周囲の大人たちは手を焼いていたようです。

16歳のとき、美術商の叔父が営むグーピル商会に就職しました。ここで多くの美術作品に触れ、趣味として絵を描き始めます。しかし、会社との関係があまり良くなかった上、失恋のショックから働く意欲を失ったゴッホは、23歳で解雇されてしまいます。教師、牧師、伝道師、書店員と職を転々とした後、美術商になったテオから精神的、経済的な支援を受けながら独学でデッサンを学び、画家を志します。このとき、ゴッホはすでに27歳になっていました。

初期の作品は、暗い色調、農民や農村風景の描写が特徴です。「ジャガイモを食べる人々」は「色が暗すぎる」などと批判も受けましたが、洗練された美しさより、ゴツゴツした無骨なスタイルを表現することにゴッホ自身はとても満足していました。

「ジャガイモを食べる人々/The Potato Eaters」1885年4〜5月/ファン・ゴッホ美術館蔵

日本大好き!浮世絵コレクターのゴッホ

1886年、テオを頼りにパリへ向かったゴッホは、そのまま同居を始めます。わずか2年間ではありましたが、この間にポール・ゴーギャンやアンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックなど多くの印象派の画家たちと交流を図りました。当時流行していた日本趣味(ジャポニズム)にも興味を持ち、浮世絵版画を収集。浮世絵の色彩表現に感銘を受け、遠いアジアの国・日本に思いを馳せるようになります。

1888年、35歳になったゴッホが移住したのは南仏の街・アルル。「空気の透明さと明るい色彩効果のために、僕には(アルルが)日本のように美しく見える」と、親交のあった画家のエミール・ベルナールに宛てた手紙に記しています。印象派の画家たち、浮世絵との出会いなどによって、ゴッホの作品は大胆で明るい色使いへと劇的に変化しました。「カップルのいる庭、サン・ピエール広場」はとても細かいタッチで描かれているのが特徴です。
 
「カップルのいる庭、サン・ピエール広場/Garden with Courting Couples:Square Saint-Pierre」1887年5月/ファン・ゴッホ美術館蔵

歌川広重の浮世絵を油絵で模写

歌川広重の木版画「亀戸梅屋舗」を油絵で写す、という前代未聞の試みを行ったゴッホ。構図は忠実に写していますが、色彩は広重より鮮烈です。注目すべき点は、広重の原作には書かれていない漢字が画面両側に記されているところ。「大黒屋」(左上)など固有名詞は読み取れますが、全体として意味はなしていません。ゴッホが装飾として添えたものであることがうかがえます。
 
「花咲く梅の木/Flowering Plum Orchard」(歌川広重を模写) 1887年10〜11月/ファン・ゴッホ美術館蔵

南仏アルルで夢見たユートピア

ゴッホがアルルに到着したのは1888年2月。穏やかな気候の中、健康面も良好で、精力的に制作に励みました。

一方でゴッホが試みたのが、ゴーギャンなどの画家仲間と画商のテオをパリからアルルに呼び、共同生活の場を作ることでした。まだ誰が来るか決まっていないうちから、早々と家を借りたり、椅子を12脚も買い揃えたり……。

その家は、作品「黄色い家」の手前・右角にも描かれています。誰かがやって来るのを今か今かと待ちながら描くゴッホの、その理想郷への期待は日に日に膨らんでいたようです。
 
「黄色い家/The Yellow House(The Street)」1888年9月/ファン・ゴッホ美術館蔵

ケンカの末、自分の耳を切り落とす?!

ゴッホとテオからの度々の誘いに応えて、ようやく10月にゴーギャン一人だけが、来てくれました。鮮やかな黄色が印象的な「ひまわり」の作品を部屋に飾って歓迎したゴッホ。ゴーギャンが来たことで刺激を受けたゴッホの作風はより深みを増し、「赤い葡萄畑」「種まく人」など、多くの作品を描きました。

「ひまわり/Sunflowers」1888年8月/ナショナルギャラリー蔵

しかし、個性の強い二人の共同生活はわずか2カ月しか続きませんでした。口論の末、ゴッホはカミソリで自らの左耳を切り落とす事件を起こしたのです。これがきっかけでゴーギャンはアルルを去り、ゴッホは89年5月にサン・レミの精神病療養院に入院することになりました。

衝動のままに生き抜いた炎の人、ゴッホの最期

約1年間サン・レミの療養院に入院したゴッホは、精神病と戦いながらも発作が起きる時以外は絵を描き、再び精力的に創作活動を行います。オリーブ畑に囲まれ、人もほとんど来ない静かな場所で、ゴッホは鉄格子のはめられた部屋から見える景色をひたすら描き続けました。妄想や幻聴に襲われる中、星や三日月、木々などをうねるようなタッチで描き、代表作の一つと言われる「星月夜」を完成させたのも、この頃です。

時を同じくして、弟テオがヨハンナと結婚。甥のフィンセントの誕生を祝って「花咲くアーモンドの枝」を描きました。うねるような情熱的な画風とは打って変わって、穏やかな優しい作品からは、温か味のあるお祝いの気持ちが感じ取れます。

「花咲くアーモンドの木の枝/Almond Blossom」1890年2月/ファン・ゴッホ美術館蔵

しかし、晴れやかな慶事とは裏腹に病状は回復せず、1890年に療養院を出たいと申し出たゴッホは、パリ近くのオーヴェル=シュル=オワーズを次の療養地にしました。精神科のガシェ博士に面倒を見てもらいながら、再び制作活動に励んだゴッホ。サン・レミの時とは違い、自由に出歩きながら絵のモチーフを探し、筆使いはますます自由で大胆になりました。
 
それでも精神の安定を保ち続けるのは難しく、ゴッホは90年7月27日、自らの胸を拳銃で撃ち抜いたのです。パリから駆けつけたテオが最期を看取り、29日にゴッホは37歳で人生の幕を閉じました。

亡くなる数週間前までオーヴェル周辺の麦畑を描き、何枚も完成させたそうです。横長のカンヴァスに描いたのは、オーヴェル時代の特徴と言えます。
 
「雷雲の下の麦畑/Wheatfield under Thunderclouds」1890年7月/ファン・ゴッホ美術館蔵

ゴッホの死後、弟のテオは?

27歳で画家になり、亡くなるまでの10年間でゴッホが残した作品は約2,000点だそう。諸説ありますが、生前に売れた作品はたった1枚。1888年にアルルの地で描かれた、あの「赤い葡萄畑」だけだったと言われています。生前はなかなか評価が得られなかったゴッホですが、弟のテオだけは兄の才能を信じて、経済的な支援を続けました。

しかし、テオも兄の死をきっかけに衰弱し、ゴッホの死から半年後、病気のため33歳で亡くなりました。現在、二人の墓はオーヴェル=シュル=オワーズに並んで埋葬され、芸術愛好家の巡礼地になっています。
(左)「画架の前の自画像/Self-Portrait as a Painter」1887年12月〜88年2月/ファン・ゴッホ美術館蔵
(右)「自画像あるいはテオの肖像/Self-Portrait or Portrait of Theo Van Gogh」1887年夏/ファン・ゴッホ美術館蔵

ゴッホの激動の人生は、いかがでしたでしょうか。内面から突き動かされるように生み出された一枚一枚の作品。その中に込められたゴッホの情熱が、観る人の魂を揺さぶるのかもしれません。その情熱に思いを馳せて、一つ一つの作品を眺めてみませんか?



参考資料
ゴッホ作品集|冨田章【著】|東京美術【刊】

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