2023年1月26日(木)から東京都美術館で開催となる「エゴン・シーレ展」。
エゴン・シーレの展覧会は、30年ぶりとのこと。
ファンにはたまらない機会ですね。
当店でも、改めて注目されている「エゴン・シーレ」と、同じ時代を生きた「グスタフ・クリムト」との関係について、追いかけてみたいと思います。
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若き天才 エゴン・シーレ
エゴン・シーレの肖像
エゴン・シーレは、オーストリアの画家。
1890年~1918年と短い生涯でありつつも、19世紀末を経て芸術の爛熟期を迎えたウィーンで、当時盛んであったクリムト率いるウィーン分離派や象徴派、表現主義に影響を受けながら、強烈で個性的な画風を確立させた若き天才です。
「常識」に反発し、独自の世界観を求めて自ら飛び込んでいった荒波の人生の中で、「人間」というものに真っ向から向き合い、荒々しく、生々しく、死と性の表現にのめり込んでいったシーレ。
体を極端にひねったり、うずくまったり、膝を抱え込んだりと、印象的で独特な人物画のポーズは、現代のクリエイターたちにも多大なる影響を与えています。
縞模様の腕章を持つ自画像 エゴン・シーレ 1915年 レオポルド美術館
青いストッキングを履いたヌード、前屈 エゴン・シーレ 1912年 レオポルド美術館
シーレとクリムト
シーレは、幼少の頃から絵の才能を発揮し、クリムトの出身校、ウィーン工芸アカデミーに入学しました。
その後、さらなる芸術の追求のため、学年最年少の特別扱いでウィーン美術アカデミーへ進学したシーレでしたが、アカデミーの保守的な古典主義を時代錯誤と嫌悪し、反発。
授業を離れ、尊敬するグスタフ・クリムトの弟子となり、精力的に作品制作に励んだのです。
グスタフ・クリムトの肖像 1914年
グスタフ・クリムトは、同じ時代にシーレの一歩先を生きた画家。
すでに、ウィーン世紀末美術の中心的な存在として、官能的な女性像や建築・工芸といった表現を通して、名声を得ていました。
クリムトと初めて出会ったシーレは、その時まだ17歳の画学生。
クリムトが、代表作ともいえる「接吻」を描いた頃です。
接吻 グスタフ・クリムト 1907–1908年 ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館
親子ほどの年齢差がある二人ですが、クリムトはシーレの才能を誰よりも認めていました。
「僕には才能がありますか?」と問うシーレに、クリムトは「才能がある?それどころかありすぎる」と答えるほど、貧しくて若きシーレを可愛がり、画商に紹介したり、面倒をよく見ていたと言われています。
一方のシーレも、クリムトとの深い繋がりとその影響力が作風に表れ、クリムトの「接吻」に影響を受けて描いたとされる作品もうまれました。
枢機卿と修道女(愛撫) エゴン・シーレ 1912年 レオポルド美術館
クリムトの全面的な援助のおかげで、18歳で個展を開催するなど、その才能を着実に世にアピールしていったシーレ。
転機の一つとなったのは、クリムトが開催したフランス印象派の絵画展で、ゴッホの「ひまわり」に出会ったことです。
実物の作品を目にし、その自由で生き生きとした作風に衝撃を受けたといわれています。
ますます保守的な制約からの解放を求めるようになり、仲間と共に「新芸術家集団」を結成。
アカデミーも去り、それは独自の表現主義を確立する第一歩となりました。
後に、敬愛するゴッホの「ひまわり」に影響を受けた、同じような構図の「ひまわり」を残しています。
クリムトとの関係性は、直接的なものだけではなく、間接的なものを含めて、シーレの芸術性に多大な影響を与えていたようです。
ひまわり エゴン・シーレ 1911年 アルベルティ―ナ美術館
タブーへの挑戦 死と性を追いかけた激動の生涯
死や性など、倫理的にタブーとされるテーマに挑んだシーレ。
それらは、クリムトとシーレの共通するテーマですが、保守的な時代には風当たりも強かったとされています。
1911年、21歳のシーレは裸体モデルを務めていた17歳の恋人ヴァリーと同棲を始め、チェコのチェスキークルムロフへ移住します。
ヴァリーの肖像 エゴン・シーレ 1912年 レオポルド美術館
黒いストッキングのヴァリー・ノイジル エゴン・シーレ 1912年
しかし、ヌードモデルのための娼婦が出入りしていたことが住民から問題視され、約3か月で追われるように町を去ることに。
さらには、ウィーン郊外のノイレングバッハに移っても、子供をモデルに誘い込んだり、裸の女性モデルが目に付くようになり、再び近隣住民から嫌われてしまうのです。
挙句の果てには、モデルの少女がシーレの家で一夜を明かしたと警察に告げたことにより、誘拐の疑いで逮捕。
その際に見つかった大量の性的な作品を卑猥な絵とみなされ、拘留されるなど、波乱に満ちていました。
1914年になると、シーレは近所に住むアデーレとエーディトの姉妹を結婚相手にしたいと思うようになり、最終的には妹のエーディトを選び、結婚しました。
エーディトの肖像(芸術家の妻) エゴン・シーレ 1915年 デン・ハーグ美術館
膝を立てて座っている女 エゴン・シーレ 1917年 プラハ国立美術館
こちらの絵のモデルは、妻のエーディトであるといわれています。
しかし、その陰には別れを告げられたヴァリーの存在が。
長年の恋人であるヴァリーと別れ、エーディト・ハルムスと結婚する数ヶ月前に描かれた絵がこちらです。
この絵のモデルは、シーレとヴァリ―。
二人の関係の終焉を描いています。
死と乙女 エゴン・シーレ 1915年 オーストリアギャラリー
そして、妹を結婚相手として選んだにもかかわらず、姉のアデーレとも関係をもっていたとも言われ、今日に残る作品に描かれている女性モデルたちは、シーレとの関係に翻弄されていた事実があるようです。
目の前にあった成功の始まりと終わり
24歳になったシーレは、第一次世界大戦で徴兵されるも、芸術家を尊重する軍の計らいで前線勤務は免れ、捕虜収容所の看守を務めました。
戦争の中でもスケッチや作品の構想を続け、その経験を作品に昇華させました。
従軍中のスケッチ エゴン・シーレ 1915年
1918年、大戦も終わりに近付く頃、クリムトによる第49回分離派展に、シーレは多数の作品を公開。
メインの画家として紹介されたことで知名度が一気に高まり、一躍注目を集めることに成功します。
多くの作品が購入され、作品の価格は向上、依頼も舞い込み、まさにこれからという時。
流行したスペイン風邪の感染により妊娠中だったエーディトが命を落としました。
さらには同じ病に感染してしまったシーレも看病むなしく、エーディトがこの世を去ったの3日後に帰らぬ人となってしまったのです。
享年28歳、激動の人生を駆け抜けた早すぎる死でした。
臨終において、シーレは「戦いは終わったのだから、僕は行かなければならない。私の絵は世界中の美術館で展示されるだろう」と語りました。
現在、作品群は故郷であるオーストリアのレオポルド美術館、チェコのシーレ記念美術館、ニューヨーク市立博物館などに収蔵され、まさにシーレが残した言葉のごとく、世界中の美術館でシーレの才能が評価されています。
ータイトル画像使用作品(左から)ー
エーディトの肖像(芸術家の妻) エゴン・シーレ 1915年 デン・ハーグ美術館
膝を立てて座っている女 エゴン・シーレ 1917年 プラハ国立美術館
接吻 グスタフ・クリムト 1907–1908年 ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館
メーダ・プリマヴェージの肖像 グスタフ・クリムト 1912年 メトロポリタン美術館
全ての画像出典:Wikimedia Commons