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作品名:エミーリエ・フレーゲの肖像
サイズ:21-26cm
素材:綿56%ナイロン42%その他2%
※カラーが以前のものからリニューアルしております。
ホットソックスで足元からオシャレに
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1971年、ニューヨークのマンハッタンで創業したレッグウェアブランド。
創業者であるGary WolkowitzはHOTSOXの功績を称えられ、1981年にアメリカのファッション業界で当時最も権威のある「Coty Award」をレッグウェア業界で初めて受賞しました。
アメリカのみならず、欧州、フランスなどでも、多数の店舗で販売しているブランドです。
その中で、FAMOUS ARTIST COLLECTIONは、2007年にスタートしたアーティストをテーマに作られた靴下シリーズです。
オシャレは足元からと言いますが、誰もが知る有名な名画を靴下にあしらったデザインは、インパクト大!
これらの名画は、プリントではなく、すべて糸を編んで表現されています。
非常に高い完成度で、ファッション性も話題性も抜群。
鮮やかな色使いや大胆なデザインは、ニューヨークならではですね。
足首もかくれる長さなので、秋~冬の寒くなる時期にもピッタリです。
ズボンの裾を折って絵柄をチラリと絵を覗かせて履くのもいいですし、夏はヒールのサンダルにあわせてファッショナブルに!
一年を通して活躍してくれそうです。
日常使いはもちろん、ファッションにこだわりのあるオシャレなあの人へのプレゼントとして、オススメのミュージアムグッズです。
生涯愛した女性 エミーリエ
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この靴下は、クリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」です。
クリムトが自発的に描いた肖像画の代表的な作品です。
クリムトは生涯独身を貫きましたが、最愛の伴侶といわれているのがエミーリエ・フレーゲでした。
12歳年下の彼女とは、弟の妻の妹として出逢い、二人は恋に落ちました。
クリムトが死の床で呼んだのもエミーリエの名だったようです。
しかし、クリムトもエミーリエも生涯独身を貫きました。
モデルとして登場するエミーリエは当時28歳で、実は流行のブティックを経営したり、服のデザインを行うなど、バリバリのビジネスウーマンでした。
経済的に自立していたからこそ築けた、自由な関係だったのかもしれませんね。
しかも、二人はプラトニックな心の恋愛関係だったとも言われています。純愛!
しかし!その反面、クリムトのアトリエは多くの女性たちで囲まれた派手な環境だったようで、クリムトの死後、名乗り出る愛人たちが続出。
少なくとも14人の私生児が判明したとか!?
作品
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エミーリエ・フレーゲの肖像
Boldnis Emilie Flöge 1902
ウィーン市立歴史美術館
作者
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グスタフ・クリムト Gustav Klimt(1862-1918)
19世紀末、ウィーンで活躍したユーゲントシュティール(象徴主義)を代表するオーストリアの画家。ウィーン分離派というグループを立ち上げ、主要メンバーの一人として活躍しました。絵画、壁画、スケッチ、その他さまざまな芸術作品を残しましたが、中でもクリムトの全盛期とも言われる「黄金様式」の金箔を用いた煌びやかな作品が有名です。画風は、日本美術からも影響を受けたと言われ、装飾的な独自の絵画表現で、一世を風靡しました。
クリムトは、主に「女性」を題材とした多くの作品を残しています。その絵画の中の女性は官能的で美しく、ファム・ファタル(宿命の女)を題材とした絵も多く描きました。クリムトが生涯残した作品(油彩・未完含む)は、220点あまりとされています。
ウィーン分離派の設立
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ウィーン郊外のベル・エポックに、ボヘミア出身の金銀細工師の家に生まれ育ちました。
14歳で美術工芸学校に入学し、21歳まで在籍しましたが、その才能は周囲からも認められるほどでした。
クリムトは、同じ学校で学んだ2歳違いの弟や仲間とともに「芸術家カンパニー」を構え、公共建築の内部装飾を主に手掛けていました。
途中、父や弟を亡くし、悩みながらも、仲間と活動していましたが、転機となったのは、クリムトが35歳になる1897年、保守的で伝統的な「ウィーン美術家協会」を脱退し、新たな芸術を探し求める「ウィーン分離派」を結成したこと。
そして、その初代会長になったことです。
「分離」とは、“伝統的・保守的な芸術からの分離”という意味を持ち、独自路線を追い求め始めたようです。
豪華絢爛な金箔「黄金様式」と晩年
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1900年代は、まさにクリムトの「黄金時代」。
クリムトの代名詞のような煌びやかな金箔が印象的な「黄金様式」が確立され、抽象的な模様と、装飾的で豪華絢爛な作風の絵画が花を咲かせます。
「ユーディットⅠ」、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」や「接吻」など、クリムトと言えばこれ!というような代表作の多くがこの時期に誕生しました。
しかし、認められる作品ばかりではなく、現存する最大の壁画として知られる「ベートーヴェン・フリーズ」に対する酷評や、型破りな作品として物議をかもした、ウィーン大学講堂の天井装飾画「哲学・医学・法学」(のちに戦争により焼失)のスキャンダルもあり、1905年に意見の対立で分離派を脱退。
翌年44歳でオーストリア芸術家連盟を結成しました。
1910年代には作品も少なくなり、その作品からは金箔が消え、代わりに鮮やかな色彩を用いた画風へと変わっていきました。
流れゆく新しい時代に対し、自身を憂い、悩んでいた様子が垣間見える記録も残っているそうです。
第一次世界大戦も集結する1918年、病に倒れ、55歳で生涯を閉じました。
ジャポニズムの影響
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「ジャポニズム」は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてヨーロッパ全域、さらにはアメリカをも席巻した一大ブームでした。
1900年の分離派展は、「日本展」が開催されたほど。「日本展」には、ウィーンの実業家が収集した700点近い日本美術品が出品され、日本美術に興味を持っていたクリムトもこの展覧会の開催に尽力したそうです。
クリムト自身も、日本の着物、浮世絵などを集めていたようですね。
クリムトは、作品も日本文化に影響されたと言われていますが、モネやゴッホのようにジャポニズムを直接的に描いたものはなく、額縁や画面に金を用いるというアイデアや落款のようなサイン、装飾モチーフや平面的な構成など、潜在的なものに限られています。
クリムトはその異国文化を自分の中で消化し、自分の独自スタイルを模索していた、ということかもしれませんね。
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