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●東京都美術館ミュージアムショップ限定オリジナルグッズ、数量限定品
作品:イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢
サイズ:8.5×6.5㎝
素材:真鍮
made in Japan
文学とアートを嗜む
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ゴールドのスタイリッシュなオリジナルブックマーカーができました。
イレーヌ・カーン嬢の物憂げな表情や、なんと言っても髪の毛!
艶や柔らかい雰囲気まで細かく再現されています。まさに職人技です。
オリジナル商品の為、購入できるのは「hmm,by東京都美術館ミュージアムショップ」のみ
となっています。
このブックマークは真鍮製で真鍮製品は錆びにくく、長期間劣化しにくい。
また細菌の働きを抑える「抗菌性能」があります。
読書のお供として、長く使っていただけるアイテムです。
本だけではなく手帳やオフィスで使うノートにも使えます。
クリップタイプのブックマーカーより付け外しがスムーズなため
定番の栞タイプを好まれる方におすすめします。
「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」のデザインがゴールドのプレートに映え、
男女問わずご愛用いただける、大人の落ち着いたしおりです。
読書好きなあの方へ、ちょっとしたプレゼントにいかがですか。
ルノワールが描く美しい肖像画
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印象派の絵画のうち、最も美しい肖像画の一枚と称される作品、「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」。
当時8歳だった少女は、ベルギーのアントワープ出身のルイ・カーン・ダンヴェール伯爵の長女イレーヌです。
第二次世界大戦の最中、ナチス・ドイツに没収されベルリンで保管されていました。その後、戦後の1946年に当時74歳だったイレーヌに返還されましたが、3年後に競売で印象派コレクターのビュールレの手に渡った作品です。
作品
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イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢
Portrait d'Irène Cahen d'Anvers 1880
チューリッヒ、ビュールレ・コレクション
作家
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ピエール=オーギュスト・ルノワール Pierre-Auguste Renoir(1841 - 1919)
フランスの印象派の画家。1841年にフランスで、労働者階級の貧しい仕立屋の息子として生まれました。13歳の時に磁器工場で働き始め、陶磁の絵付け職人として才能を発揮しますが、産業革命の影響で機械生産に職を奪われてしまいます。
20歳で画家の道へ進み、シャルル・グレールの画塾に入ったことで、モネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合いました。23歳でサロンに初めて入選。モネとも親交を深め、共に風景画を描きました。筆触分割を用いて自然の一瞬の姿をキャンバスに写し取るための統一した様式を生み出しました。1870年、普仏戦争が勃発すると、ルノワールも兵として戦地に赴きました。1871年普仏戦争の後、パリが動乱に陥る中、再び筆を持ちます。
しかし、サロンは保守性を増し、ルノワールも仲間と同じく落選が続いたため、モネやピサロとともに、共同出資会社を設立、1874年33歳でサロンから独立したグループ展(後の「第1回印象派展」)を開催しました。宗教画や神話などの保守的な絵画が主流の中、印象派の評価は厳しいものでしたが、印象派展を通してルノワールは徐々に注目を集めるようになり、1977年の第3回印象派展に出品した「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は高い評価を得て、ルノワールの代表作にもなりました。
1879年、ついにサロンでの高評価も獲得し、画家としての不動の地位を確立します。1880年からは美術探求の旅を始め、特にフランスの画家ウジェーヌ・ドラクロワやイタリアの画家ラファエロ・サンティに強い影響を受けました。印象派から徐々に新古典主義に関心が移り、さらに印象派の色彩表現と古典的な表現を融合させた独自の画風を確立しました。その明るく柔らかで、暖かみのある画風から「幸福の画家」と称賛されるルノワール。病と闘いながら、1919年に亡くなるまで精力的に制作を続けました。生涯で4,500点以上の作品を残しています。
カフェ・ゲルボワ
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パリのモンマルトル バティニョール地区 (現在のクリシー街9番地)にあった「カフェ・ゲルボワ」。
1860年代後半、この店は「芸術家たちの溜まり場」でした。
中心となっていたのは、エドゥアール・マネ。当時タブーとされていた裸の現代女性を描いた「草上の昼食」や「オランピア」で、センセーション(今でいう大炎上!)を巻き起こしていた画家です。
この店は、そのマネのアトリエからほど近くにあったこともあり、時代の先を行く彼を支持する若い芸術家たちが夜な夜な集い、新しい芸術について激論を戦わせていたのです。
そのメンバーは、今振り返るとなんとも豪華な顔ぶれ!
マネを中心に集まっていたのは、ドガ、ピサロ、セザンヌ、バジール、モネ、シスレーなどの画家を始め、作家のエミール・ゾラ、批評家、彫刻家、版画家、写真家などなど。もちろん、ルノワールもその中の一人でした。
その頃すでに注目されていたマネとドガが芸術論を戦わせており、20代の若手画家だったモネやルノワールはその話を熱心に聞き入っていたとか。
「カフェ・ゲルボワ」での意見交換は、この後に生まれる「印象派」の礎となりました。
印象派の始まりは酷評!?
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アート好きなら知らない人はいない(!?)「印象派」。
ルノワールも、印象派の人気画家の一人です。
印象派の由来は、モネの代表作「印象・日の出」(1872)に由来すると言われています。
サロンに落選していたルノワールやモネは、独立した自由な発表の場を求め、自らの手で展覧会を開こうと模索したのが始まりでした。
1874年、同じ志の仲間たちと開催したその展覧会こそが、のちの第一回印象派展となるグループ展。
ルノワール、モネのほかに、ドガ、ピサロ、シスレーなど30人以上の画家が参加しました。
展覧会カタログは、弟エドモンが制作、展覧会の構成は主にルノワールが取り仕切ったと言われています。
ルノワールは、「踊り子」、「桟敷席」、「パリジェンヌ(青衣の女)」など風俗画5点、風景画1点、静物画1点の、合計7点を出品しました。
しかし、その展覧会は世間から厳しい酷評さらされました。
当時写実主義が高く評価されていた時代、特に、モネが故郷ル・アーヴルの港を描いた「印象・日の出」に対して受けた批判は、広く世に知られるようになりました。
―――批評家のルイ・ルロワが、新聞紙『ル・シャリヴァリ』に載せた言葉。
「印象か。確かにそうだと思った。私も印象を受けたんだから。つまり、その印象が描かれているというわけか。だが、なんて自由で、なんといういいかげんさ。この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、よっぽどましだ。」
その揶揄がもとで、彼らは「印象派」と呼ばれるようになりましたが、その呼称はいつしか受け入れられ、画家たち自身も使うようになりました。
ルノワールとモネの友情
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ルノワールとモネは1歳違い。
経済的に困窮するモネに、ルノワールはパンを運んだりするなど、二人は絵画を超えて深く交流するようになります。
二人で並んで制作をするほど、大の仲良し。
この頃の制作活動を通して、二人は従来のパレットの上で色を混ぜる方法ではなく、原色同士をそのままキャンバス上に筆で置いていくという手法で、光と光の明るさを表現する方法を確立しました。
筆触分割とも呼ばれ、鮮やかな色彩を保つことができたのです。
ルノワールとモネの柔らかな光は、二人で並んで生み出したものだったんですね。