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作品名:笛を吹く少年
サイズ:3.4×1.7cm
素材:ステンレス,樹脂
日本製
好きな絵画を身近に
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様々な名画を小さくクリップに収めた「アートクリップ」シリーズです。
書類をまとめるときに、事務用のクリップだとありきたりですが、お気に入りの絵画が楽しめるアートクリップなら、きっと作業も楽しくなるはず。
スライド式のクリップは、手で差し込むだけ。
小さくても、しっかり強くとじられます。
手軽に抜き差しでき、繰り返し使用できます。
書類、ハガキ、レシート、お札など、ちょっと束ねたいときに活躍する便利なミュージアムグッズです。
少年の顔のモデルはマネの息子?
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「笛を吹く少年」は、油絵で描かれたエドゥアール・マネの代表作の一つです。
マネとボードレールの友人で近衛軍司令官のルジョーヌ少佐に紹介された少年を描いたとされています。
一説には、顔の部分のみ息子レオンに似せたとか。
人物像の後ろに無地の背景を用いる手法は、マネが最も尊敬する17世紀スペインの画家ベラスケスの影響を受けています。
この作品はジャポニスムの影響も受けていると言われており、遠近法を排し、力強い輪郭と、静的で平面的な様は浮世絵の技法に通ずるものがあります。
作品
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笛を吹く少年
Le Joueur de fifre 1866
オルセー美術館
作家
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エドゥアール・マネ Édouard Manet(1832 - 1883)
「印象派の先駆者」「近代絵画の始祖」などと呼ばれる、19世紀フランスの画家。1832年、パリ・ルーブル美術館のすぐ近くにある裕福な家に生まれました。法律家になることを望む父の反対に合いながら、叔父の影響で絵画の道に進み、1850~56年に歴史画、俗画の大家トマ・クーチュールに師事しました。また、ルーブル美術館などで古典的絵画に触れ、積極的に模写に取り組み、研究を重ねました。
1863年、当時タブーとされていた裸の現代女性を描いた作品「草上の昼食」や「オランピア」で、絵画界にスキャンダルを巻き起こしましたが、近代絵画の革命にきわめて重要な役割を果たしたと言われています。現代都市の人間像に関心を寄せ、明るい色彩と平面的な構図で都会感覚あふれる絵を描きました。後輩である印象派のグループ展には参加していませんでしたが、それらの画家には大きな影響を与え、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられています。1881年冬から翌1882年にかけて、最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』の制作に取り組み、1883年51歳の若さで青年時代からの病により生涯の幕を閉じました。
当時、大炎上した代表作
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マネと言えば、「草上の昼食」や「オランピア」が代表作として知られています。
当時、エドゥアール・マネの名を一躍有名にした問題作です。
伝統への挑戦として描いた「草上の昼食」は、当時の民衆の間で流行していたセーヌ河畔で過ごす休暇風景を、巨匠ティツィアーノの「田園の奏楽」といった古典絵画をもとに現代化したものです。
当時「水浴」として、1863年のサロンに出品しましたが、拒絶され落選…。
ナポレオン三世主催で開催された、同年の落選展に出品しましたが、公開されるや否や、非難轟々…。
来場者の多くが、「堕落した恥ずべき作品」、「批評家をからかい、混乱させるために描いた稚拙で厚かましい作品」と猛烈な批難を浴びせました。
要は、「ハレンチ!!」ということです。
その原因は、神話的・異国的世界の裸婦ではなく、禁じられていた現実の世界の裸婦を描いたためです。
また、1865年のサロン出品作「オランピア」もまた、高級娼婦を思わせるモデルが、スキャンダラスな問題作として物議を醸しました。
タイトルの「オランピア」とは、当時の娼婦に多く用いられた通称です。
サロンには入選するものの、卑猥な作品として「草上の昼食」以上の大きなスキャンダルに発展したそうです。
巨匠ティツィアーノの傑作「ウルビーノのヴィーナス」に基づいて作成されていますが、ティツィアーノのような神話的アプローチではなく、そのありのままの艶めかしい現実的な裸の娼婦の表現が、衝撃的でした。
現代の闇を照らしてしまった状況は、人々を混乱させました。
マネの特徴は、古典的な絵画を引用し、「都市生活者の哀愁と現実」を描いたこと。
現在では、革命のごとく、絵画の在り方を根本から変えた画家として評価されていますが、当時は大炎上ばかり起こす問題児のように見られていたんですね。
カフェ・ゲルボワでのドガとの交流
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パリのモンマルトル バティニョール地区 (現在のクリシー街9番地)にあった「カフェ・ゲルボワ」。
1860年代後半、この店は「芸術家たちの溜まり場」でした。
中心となっていたのは、エドゥアール・マネ。
ちょうど大炎上していた頃です。
この店は、そのマネのアトリエからほど近くにあったこともあり、時代の先を行く彼を支持する若い芸術家たちが夜な夜な集い、新しい芸術について激論を戦わせていたのです。
そのメンバーは、今振り返るとなんとも豪華な顔ぶれ!
マネを中心に集まっていたのは、ピサロ、セザンヌ、バジール、モネ、ルノワール、シスレーなどの画家を始め、作家のエミール・ゾラ、批評家、彫刻家、版画家、写真家などなど。
やがて、ルーブル美術館での模写で既に親交があったドガも出入りするようになりました。
マネと同じくブルジョワ家庭に生まれたドガとは、深い絆で結ばれていたと言われています。
正反対の性格のマネとドガは、このカフェで芸術論を戦わせており、20代の若手画家だったモネやルノワールはその話を熱心に聞き入っていたとか。
彼らはパティニョール派とも呼ばれるようになり、「カフェ・ゲルボワ」での意見交換は、この後に生まれる「印象派」の礎となりました。
マネとモネ
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マネとモネは、8歳違い。名前も似ています。
1865年のサロンにてマネの「オランピア」の近くに、新人だったモネの作品が偶然置かれることに。
マネは、「自分の名前を利用しようとする人物がいる!」と誤解して激怒したのが、モネとマネとの始まりだったとか。
それが原因で、モネは「クロード・モネ」というフルネームの署名をするようになり、姓だけの署名をやめたとも言われています。
その後の交流を経て、印象派が経済的に困窮していた頃、マネがモネを支援した時期もあり、二人の絆は深くなっていきました。
51歳でマネが亡くなった後、お金に困ったマネ夫人が海外へ「オランピア」を売ろうとしたことを知ったモネは、その作品が国外へ流出することを憂い、また夫人への経済援助にもなるとし、国家に寄贈するために資金集めに尽力しました。
結果、ルーブル美術館に収めることになり、マネの評価を高めたとのことです。
モネの、マネへの畏敬の念が伝わってくるようなエピソードです。
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