SOLD OUT
作品:接吻(部分)イメージ
サイズ:ペンダントトップ1.5×3.1×0.6(チェーンの長さ43cm)
素材:ペンダントトップ 七宝
本体・チェーン ロジウムメッキ
※小箱がついています
クリムトの装飾モチーフをファッショナブルに
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このクルクルとした渦巻き模様、クリムト好きにはピンときましたよね!
クリムトの代表作「接吻」を含め、様々な作品でクリムトが好んで繰り返し用いられていた装飾モチーフです。
そしてこのネックレスは、その作品をイメージして制作したミュージアムショップならではのアートアクセサリーです。
「接吻」のモデルは画家本人?
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「接吻」は、19世紀にオーストリアで活躍した画家クリムトの代表作ともいえる作品です。
45~46歳の頃に描きました。
クリムトの黄金時代を代表する作品であり、クリムトの最も有名な作品として、現在も多くの人々を虜にしています。
クリムトの象徴ともいえる金箔を用いた背景は、抱き合い口づけをする男女を引き立て、豪華な印象を与えています。
この男女のモデルに関しては、一説には、女性はクリムトの最愛の女性エミーリエ、男性はクリムト本人ともいわれています。
二人のいる場所は美しい花畑に見えますが、よく見るとそこは崖の淵…。
抱き合う二人の不安定な未来を暗示しているかのよう。
また、男性の服は白黒で四角と直線の繰り返し、女性の服は鮮やかな色彩の円や渦巻きの繰り返しパターンで描かれていますが、これは、男性、女性それぞれを象徴的に描いた模様ととらえられています。
男性の四角い白黒模様、実は、ジャポニズムに影響されたクリムトが日本の市松模様に由来して描いた、とも言われているんですよ。
このネックレスは、この男性の服をイメージしたデザインとなっています。
七宝焼きとは?
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このクリムト絵画をモチーフとしたペンダントトップ部分は、七宝によって表現されているのですが、この「七宝焼き(しっぽうやき)」という伝統工芸をご存知でしょうか。
金・銀・銅などの金属の素地にガラス質の釉薬を盛り彩色し、高温で焼き付ける技法です。
英語では、enamelと呼ばれています。
キッチン用品などで良く聞く「琺瑯(ほうろう)」、それも鉄に釉薬を焼き付けた「七宝焼き」の一種なんですよ。
融けた釉薬は滑らかで、ガラスのように美しい。
宝石のような美術品は、長い時を経ても色あせることなく、輝き続けます。
七宝は、古代エジプト・ツタンカーメン王の黄金マスクの装飾で使われており、この時代が七宝の起源といわれています。
長い時間をかけながらシルクロードを渡り中国へ、中国から日本へ、ちょうど飛鳥時代(6~7世紀)の頃に伝えられたと言われています。
時を経て明治時代に人気に火が付き、盛んに制作された品々は万国博覧会を経て世界からも高い評価をうけていましたが、現在では残念ながら失われてしまった技術も…。
一層、大事に守っていきたい伝統工芸の一つです。
シルバーのペンダントトップに、七宝で施したクリムトの「黄金様式」を思わせる色彩の螺旋状モチーフと直線的な装飾が映え、とても魅力的なアクセサリーとなりました。
小箱に収められていて、プレゼントにもオススメです。
【作品】
グスタフ・クリムト
『接吻』1907-08年
The Kiss
ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館蔵
■グスタフ・クリムトGustav Klimt(1862-1918)
19世紀末、ウィーンで活躍したユーゲントシュティール(象徴主義)を代表するオーストリアの画家。ウィーン分離派というグループを立ち上げ、主要メンバーの一人として活躍しました。絵画、壁画、スケッチ、その他さまざまな芸術作品を残しましたが、中でもクリムトの全盛期とも言われる「黄金様式」の金箔を用いた煌びやかな作品が有名です。画風は、日本美術からも影響を受けたと言われ、装飾的な独自の絵画表現で、一世を風靡しました。
クリムトは、主に「女性」を題材とした多くの作品を残しています。その絵画の中の女性は官能的で美しく、ファム・ファタル(宿命の女)を題材とした絵も多く描きました。クリムトが生涯残した作品(油彩・未完含む)は、220点あまりとされています。
ウィーン分離派の設立
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ウィーン郊外のベル・エポックに、ボヘミア出身の金銀細工師の家に生まれ育ちました。
14歳で美術工芸学校に入学し、21歳まで在籍しましたが、その才能は周囲からも認められるほどでした。
クリムトは、同じ学校で学んだ2歳違いの弟や仲間とともに「芸術家カンパニー」を構え、公共建築の内部装飾を主に手掛けていました。
途中、父や弟を亡くし、悩みながらも、仲間と活動していましたが、転機となったのは、クリムトが35歳になる1897年、保守的で伝統的な「ウィーン美術家協会」を脱退し、新たな芸術を探し求める「ウィーン分離派」を結成したこと。
そして、その初代会長になったことです。
「分離」とは、“伝統的・保守的な芸術からの分離”という意味を持ち、独自路線を追い求め始めたようです。
豪華絢爛な金箔「黄金様式」と晩年
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1900年代は、まさにクリムトの「黄金時代」。
クリムトの代名詞のような煌びやかな金箔が印象的な「黄金様式」が確立され、抽象的な模様と、装飾的で豪華絢爛な作風の絵画が花を咲かせます。
「ユーディットⅠ」、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」や「接吻」など、クリムトと言えばこれ!というような代表作の多くがこの時期に誕生しました。
しかし、認められる作品ばかりではなく、現存する最大の壁画として知られる「ベートーヴェン・フリーズ」に対する酷評や、型破りな作品として物議をかもした、ウィーン大学講堂の天井装飾画「哲学・医学・法学」(のちに戦争により焼失)のスキャンダルもあり、1905年に意見の対立で分離派を脱退。
翌年44歳でオーストリア芸術家連盟を結成しました。
1910年代には作品も少なくなり、その作品からは金箔が消え、代わりに鮮やかな色彩を用いた画風へと変わっていきました。
流れゆく新しい時代に対し、自身を憂い、悩んでいた様子が垣間見える記録も残っているそうです。
第一次世界大戦も集結する1918年、病に倒れ、55歳で生涯を閉じました。
生涯愛した女性 エミーリエ
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クリムトの作品にも、モデルとして登場する彼女。クリムトは生涯独身を貫きましたが、最愛の伴侶といわれているのがエミーリエ・フレーゲ。12歳年下の彼女とは、弟の妻の妹として出逢い、二人は恋に落ちました。
クリムトが死の床で呼んだのもエミーリエの名だったようです。
しかし、クリムトもエミーリエも生涯独身を貫きました。
実は、エミーリエは流行のブティックを経営したり、服のデザインを行うなど、バリバリのビジネスウーマン。
経済的に自立していたからこそ築けた、自由な関係だったのかもしれませんね。
しかも、二人はプラトニックな心の恋愛関係だったとも言われています。純愛!
しかし!その反面、クリムトのアトリエは多くの女性たちで囲まれた派手な環境だったようで、クリムトの死後、名乗り出る愛人たちが続出。
少なくとも14人の私生児が判明したとか!?
ジャポニズムの影響
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「ジャポニズム」は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてヨーロッパ全域、さらにはアメリカをも席巻した一大ブームでした。
1900年の分離派展は、「日本展」が開催されたほど。「日本展」には、ウィーンの実業家が収集した700点近い日本美術品が出品され、日本美術に興味を持っていたクリムトもこの展覧会の開催に尽力したそうです。
クリムト自身も、日本の着物、浮世絵などを集めていたようですね。
クリムトは、作品も日本文化に影響されたと言われていますが、モネやゴッホのようにジャポニズムを直接的に描いたものはなく、額縁や画面に金を用いるというアイデアや落款のようなサイン、装飾モチーフや平面的な構成など、潜在的なものに限られています。
クリムトはその異国文化を自分の中で消化し、自分の独自スタイルを模索していた、ということかもしれませんね。
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